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代表者プロフィール

代表者 小口秀喜

Koguchi Hideki

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小口秀喜のプロフィール

1976年、山形県長井市生まれ。

山形大学教育学部で中学国語教育を専攻。

中退後、 大石田町の最北高等技術専門校(現在閉校)で建築技術を学ぶ。

卒業後、大手ハウスメーカーで住宅営業職として10年間勤務。 酒田・鶴岡・米沢・山形ほか県内各地で1,000組以上の住宅建築や不動産売買の相談を経験。

培った知識と経験を生かし、2013年、山形市清住町に㈱Ilove(アイラブ)を設立。

2019~2021年、全日本不動産協会山形県本部 理事を務める。

  • 星座・血液型/ ふたご座・AB型
  • 趣味/ スプラトゥーン2
  • 座右の書/ 竜馬がゆく(司馬遼太郎 著)
  • 座右の銘/ 人間万事塞翁が馬

ごあいさつ

「いろんな会社でいろんな話をされて、どれが本当で何が良いのか分からなくなった・・・」

 

私が前職で住宅営業マンをしていた頃に良く聞いた言葉です。

マイホームを建てようと住宅展示場を見学に来た人が、いろんな建築会社の建物を何件も見たあとで、最後に私に言うのです。

「何とかしたいな」とずっと思っていました。

しかし会社勤めの立場ではいろいろと制約があります。自分が本当にやりたいサポートが出来ず悶々としていました。

そこで、一念発起。

マイホーム購入で困っている人のサポートをしようと決意し、独立しました。

セミナー講演(山形グランドホテルにて)

㈱Iloveという社名について

~10年間住宅営業マンだった私がなぜ不動産屋を始めたのか?~

「どうして、㈱Iloveという社名にしたんですか?」

これまでいろんな方から、このような質問を受けてきました。変わった社名ですから、当然です。

聞かれるたびに理由をお話してきましたが、実はすべてを語りつくせたことはありません。

なぜかというと、Iloveという社名は、話せば長く、深い理由、強い想いがあってつけた名前だからです。聞かれてすぐに答えられる話ではないからです。

 

社名の由来を語るには、そもそも私が独立した理由からお話しなければなりません。

 

独立する前の10年間、

私は大手ハウスメーカーの営業マンとして、山形県内を飛び回っていました。

お客さまと私をつないだもの

私がその会社に入社したのは、

『木造住宅ナンバーワン』

と書かれた文字を、ハローワークの求人募集でたまたま目にしたのがきっかけでした。

その当時、私は大学を中退し、大石田町にあった最北高等技術専門校で家作りを学んでいました。

大工になるつもりだったのです。

 ところが、卒業が近づき大工として雇ってくれるところを探そうとしましたが、なかなか上手くいきません。

そこで家作りの道はあきらめて、家が欲しいという人と直に関わる仕事をするため、住宅営業をやろうと決めたのです。 そんな時、目にしたのが『木造住宅ナンバーワン』の文字。

すぐに「ここだ!この会社しかない!」と感じて、すぐに応募しました。

山形支店での1次面接、東京での2次面接を無事通過し、この会社に入社しました。

当時の私は、その後独立して不動産屋を開業するとは、夢にも思っていませんでした。

専門校で一緒に学んだ仲間たち ほとんどが10代
入社当時のわたし

たまたま見たハローワークの求人募集がきっかけで、大手住宅メーカーの営業マンとして採用された、私。

入社したのは良いものの、当時は右も左も分からない状態でした。

なにしろ、営業職としての経験が全くないわけですから。

それどころか、これまで正社員として勤めた経験すらない・・・。

電話の応対から、名刺の渡し方など、何もかも始めての経験です。一から勉強の日々でした。

展示場を見に来たお客さんから「この展示場は坪単価、いくら?」なんて聞かれても、

「『坪単価』って、何だろう?」というくらいのレベルでした・・・。

そんな非常に頼りない私でしたが、入社してすぐ、ものすごい数のお客様の接客を会社から任されることになったのです。

お客さまと私をつないだもの

知識も無ければ、営業経験もゼロの私は接客もシドロモドロです。

接客がうまくいかないから、当然その後の商談にもつながりません。

すっかり元気を無くしてしまいました。

 

そんな時「こんな私でも、お客様に役に立てる方法は何かないのだろうか・・・」 と考えたすえに思いついたのが『ニュースレター』を発行することでした。

ニュースレターなら、どんなに接客が下手でも、後からお客様に情報を届けることが出来るのではないか。

「これなら、喜んでもらえるかもしれない!」

そう考えた私は早速ためしてみる事にしました。

当時発行していたニュースレター
この頃はじめた太極拳のことも書いてたり

記事の内容は、家づくりで知って欲しいポイントや、最新の住宅業界の話題などを盛り込みました。

「少しでも参考にしてもらえたらいいな」という気持ちで書いてました。 その他プライベートな話もたくさん書きました。

すると、「楽しく読んでますよ」「太極拳やってるんですね!」「TVに出たんですね」などと言ってもらえることが増えました。 

本当は口下手な私が、お客様と話をするのが楽しくなり、仕事にも自信がついてきました。 「これならやっていけそう。」 そう思い始めた矢先、まったく思いがけない事が起きました。

ニュースレターを発行するようになってから、お客様と話をするのがようやく楽しくなってきた私。

「これからもっともっと頑張るぞ」と思っていた、その矢先、思いがけない出来事が起こりました。

『酒田への転勤』です。

酒田の庄内営業所への転勤は、私にとって、まったく予想外の出来事でした。

そして一番のショックは、せっかく仲良くなれたお客さまとの関係が切れてしまうこと。

当時発行していたニュースレター

当時わたしが勤めていた会社は、各支店・営業所ごとに担当エリアが分かれていました。

そのため転勤する場合は後任者にすべて引き継がないといけなかったのです。

何度も展示場で話をしたり、電話でお話したり、ニュースレターを出したりして、やっと関係が築けてきたと思ったのに・・・。

【私が住宅営業マンを辞めた理由・その1】

転勤でお客さまとの関係が切れてしまうのが哀しかったから

 

しかし、いざ転勤してみると、庄内での暮らしは私の想像をはるかに超えたものでした。

新天地での生活

はじめての転勤。

そして、これまで暮らしたことのない酒田での生活が始まりました。

転勤した初日。

給油のためにガソリンスタンドに立ち寄りました。

すると、店員さんとお客さんの会話が、遠くのほうから何となく聞こえてきます。

 

「…での~」 「もっけだの~」

 

庄内弁をナマで聞いたのはそれが初めてでした。

 

「なんだか遠いところに来ちゃったな」軽いホームシック状態です。

 

「これから先、仕事大丈夫だろうか」

急に不安が込み上げてきたのでした…。

 

<それから、数ヶ月が過ぎ・・・>

 

「水が合う」と言うのでしょうか。

私はすっかり酒田が、庄内が好きになっていたのです。

鳥海山があまりにきれいだったので クルマをとめて撮影(当時のニュースレターより)

それは、日本海、庄内浜、庄内平野のおかげです。

 

青い空と広い海。そして、青々とした稲が遠くまで広がる庄内平野。

眺めているだけで何だか心がウキウキして、小さな悩みや不安が消えていきました。

 

私が生まれた長井市は、周りを山に囲まれた、盆地です。360度、山。

山は好きな私ですが、結構な圧迫感も感じてました。

 

だから尚更、新鮮でした。

広々とした庄内という環境に身を置くことで、心がリフレッシュできたのだと思います。

当時の私は、山形で働いていた時よりも、さらに生き生きと仕事をしていました。

2015年 夏 子どもたちと(鶴岡市湯野浜)

だから尚更、新鮮でした。

広々とした庄内という環境に身を置くことで、心がリフレッシュできたのだと思います。

当時の私は、山形で働いていた時よりも、さらに生き生きと仕事をしていました。

転勤を機に、前からやりたかった“釣り”もはじめました。

無心になって糸をたらしていると、心が落ち着きます。

 

それに庄内に行ってからも、太極拳は続けてました。

当時は酒田から山形の教室まで、月3回ペースで通ってました。

 

休日は釣りや太極拳でリフレッシュ。すっきりした気持ちで仕事に取り組めます。

忙しいながらも充実した毎日でした。

 

そんななか、プライベートでは1つの問題をかかえていました。

はじめて購入したグッズたち (当時のニュースレターより)

仕事と私生活のあいだ

会社から転勤を告げられた当時、私には付き合っている彼女がいました。

彼女も働いていましたし、私とは仕事の休みが合わず、休日一緒に出かけたり、、、ということは、滅多にありませんでした。

それでもお互い、住まいも職場も山形市内だったので、時間を見つけて会うことは出来ていました。

それが、突然、私は酒田に転勤することになってしまいました。

 

転勤が決まる少し前に、

「遠距離恋愛してる人って、すごいと思う。オレはダメなんだよね。」

なんてふざけて彼女に言っていた、私。

そんな自分が、まさか遠距離恋愛をすることになるとは… 。

 

上司から転勤を命じられた日、彼女にそのことを伝えました。


「来月から酒田に転勤になった・・・」


するとその途端、彼女の目から涙がボロボロ、ボロボロ溢れて止まりません。

こんなに泣いているところを見たのは初めてでした。

私がなだめても、話しかけても、彼女はただ黙ってボロボロ、ボロボロ。

その様子を見ている私は、ただただオロオロ。。

「決まったことなんだからしょうがないよ。大丈夫だよ。」

その言葉に何の説得力も無いことは、私が一番わかっていました・・・

 

それから数週間後、私はひとり、酒田に向かいました。

その時点では、彼女との関係がこの先どうなるのか、まったく分かりません。

分かっているのは、これまで以上に2人が会えなくなるということだけ。

そして、実際に、2人で会うことは少なくなりました。

 

【私が住宅営業マンを辞めた理由・その2】

転勤で好きな人と離れて暮らすのが嫌だったから

 

当時の私は、少しでも早く、新しい環境に慣れて仕事で結果を出そうと必死でした。

彼女のことは気になっていましたが、仕事も大事でした。

 

それからしばらくは、仕事づけの日々。

 

彼女から電話がかかってきても、もともと電話が得意ではない私。彼女と電話する時間はだんだん少なくなりました…。

 

    ———————————-

 

そうこうして、私が庄内での仕事にもやっと慣れた頃、彼女が酒田まで会いに来てくれたことがありました。寒い冬の日でした。

ペーパードライバーだった彼女は、高速バスに乗って、私のアパートを訪ねてきてくれました。

 

せっかく会えたのに、どこかに出かけるわけでもなく、ただ他愛ない話をして彼女は山形に帰っていきました。

 

私に会うためだけに彼女が来てくれたことが、とても嬉しくて、とても愛おしく感じました。

 

彼女が帰った部屋で、1人になって思いました。

 

「大切にしなくちゃいけないな・・・」

 

———————————- 

 

そんな時です。

今度は米沢へ転勤することになりました。

結婚・家族・仕事・独立

転勤を機に、しばらくして、私たちは入籍しました。

約1年ほど置賜で働いたのち、酒田に戻って、すぐに長男が生まれました。

同僚からは「こぐっちゃんは転勤のたびに家族が増えるよね」と笑われました。

仕事が忙しいのは相変わらずでしたが、充実してました。

ただ1つだけ、仕事を続けているうちに気になりはじめたことがありました。

当時、私が売っていたのは、いわゆる高価格帯の注文住宅でした。

部材にこだわり、厳格な管理のもと作られた住宅の品質は大変すばらしいものでした。

しかしその分、建築費はそれなりの額になります。

建物の設備や私自身のことを気に入ってもらっても、予算が合わないこともあります。

当然と言えば、当然のこと。とは言え、どうすることもできない、無力感。

「本当にこれでいいのかな・・・」

「せっかく私を気に入ってくれた人に、自分が納得できる形で貢献したい」

そう思ったとき、ある1つの考えが浮かびます。

このまま1つの会社の家を売るのではなく、あらゆる住宅を扱える不動産屋をはじめたとしたら、どうだろう?

自分が不動産会社をやれば、今いる会社の家も提案できるし、他の会社の家も提案できる。

人に合わせた提案ができる!

【私が住宅営業マンを辞めた理由・その3】

好きな人に感謝されながら、好きな人に囲まれて暮らしたかったから

私のことを気に入ってくれた人と長いお付き合いができる!

転勤もないから、家族とも一緒にいられる!

このようなわけで、数年後、私は住宅営業マンをやめて、不動産会社をはじめました。

そして、、、

「私を気に入ってくれた人に貢献したい」という気持ちと

「好きな人と好きな場所で一緒にくらしたい」という私のワガママ

その象徴として、会社に「Ilove」という名をつけたのです。

【おわり】

 

長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。

あなたにとってほとんど役に立たない、私のプライベートな話でしたけど。

でも、こんな話を最後まで読んでくださった、あなたのような方こそ、私が長くお付き合いしたいと思っている人です。

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